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「ス ペクタクル」とアート――新しいギャラリー構想に向けての比較研究 堀田真紀子

 

‘Spectacle’ and Art --- A comparative study                         Makiko Horita

 

In this paper I try to make a clear difference between the mass media’s attitude toward images (which I call ‘spectacle’ in accordance with Guy Debord) and that of artists. In the highly information-oriented society of today the ‘spectacle’ influences people so deeply that we tend to take that attitude when we treat arts, which damages transmission of its essence.

The main difference between the two attitudes consists in how they treat the moral context of the images. For artists the appearance of images, their effects or beauty are never depicted for their own sake. The effect or the beauty only comes after as the results or mere byproducts of his or her quest for a new reality. The quest is what matters. And it has a moral nature: the artist tries to discover something valuable to him or her and to other people. If the artist directly chooses effective or beautiful images without this quest, he can only produce ‘kitsch’ in the sense of Hermann Broch. 

For the mass media, only the fixed appearance of the image matters. And the media often refers to images ignoring their moral context, using them for different, often spectacular purposes which often contradict their originally moral contexts. In that way the mass media transforms every great art work into kitsch as it separates its appearance from its original moral contexts.

An art gallery should be a countervailing power against this prevailing trend. And I examined the form of gallery which emphasizes the moral context of art works.

 

1  問題の設定

  私は、平成19年度(2007年度)北 翔大学北方圏学術情報センター研究費の助成を受けた美術研究プロジェクトに参加し、札幌での現代アート受容現場の実態調査や実験を行ってきた。本論は、そ の過程で明らかになったことを踏まえ、そこに理論的考察を加えることで、次の実験として予定中のコミュニティギャラリーの構想をなそうとするものである。

理 論の軸にしたいことは、現代アートを一つのメディアとみなすとき、それは、マスメディアの発達を背景に、高度消費資本主義により促され、今や圧倒的な浸透 力をほこるものの知覚や行動の様式(ギー・ドゥボールの言葉を借りて、これを仮に、「スペクタクル」と呼ぶことにしよう)とどう異なるかを比較するメディ ア論的考察である。メディア論的という言葉で、私は、ある情報媒体が、どのような内容を 伝えているかではなく、それが人間に、イメージや情報に対するどのような態度を 浸透させるかに焦点をあてた形式分析的アプローチを指す。

同 じ時代、環境を共有するアーチストによる現代の作品は、すでに美術館入りしている公認のアートと比べると不人気で、受容者、制作者ともに、なかなか育たな い。その理由を考えるに、一つには、高度情報資本主義やマスメディアの発達が圧倒的浸透力で私たちに促すこのイメージや情報に対する態度が、現代アートの 制作・受容の場で必要になる態度と、全く異なることがあげられると思うのだ。高度情報資本主義のメディアは、視聴率を得、スポンサーを確保するために、 「大多数の人に気に入ってもらい、あらゆる人が、ききたがっていることを確認できるよう、紋切り型に仕えなければならない」[1]。 また、あわただしい毎日、氾濫する情報同士の競合の中、印象にとどめられるよう、視覚的に瞬時に理解され、効果を生み出さなければならない。こうした 「キッチュ」、あるいは「スペクタクル」なイメージや情報の扱いが私たちの生活に侵食し、たとえば、テレビで報道されたことが、身の回りで起こることより も身近になるにつれ、「生活全体がスペクタクルの膨大な集積として現れ、かつて直接的に生きられていたものはすべて、表象として遠ざけられてしまった」[2]。 アートもその例外ではない。それどころか、その先鋭的な位置を担っているといえるだろう。たとえば古典的な名画、名曲は、コマーシャルの中で繰り返し流れ ることで、すっかりおなじみの「キッチュ」な存在へ貶められてしまっている。しかし、リアルタイムで制作された現代アート、しかも、商業主義にも与さず、 私たちが今、現に生きている社会の前提を問うたり、自明と見なしていることを疑っているために、「キッチュ」な扱いのしづらい作品についてはどうか? 見 慣れたものの限りないヴァリエーションからなる「キッチュ」の心地良い枠のなかでまどろみ、「スペクタクル」の刺激にすっかり慣れている人たちは、同じ態 度のままで、これに近づくと、侮辱され、裏切られたと思う。当然ながら拒絶反応が起こる。

こ の拒絶をおそれて、アーチストやキュレーターのなかには、現代アートにも「スペクタクル」性をもちこむような制作や展示を行うようになってきた。時流に媚 びたり、何が何でも有名になったが勝ちといったスキャンダルの人為的演出、はてまた展覧会に集客数目標を立てるようなことまでなされるようになる。これは 現代アートというメディアに対する「スペクタクル」の論理の押し付けというものであり、そんなことをすれば、現代アートが、人や社会に対して、その本来の 解放的な機能を果たす道を閉ざされ、アートとしての内在的な力も、存在価値も失うことになる。つまり自分で自分の首を絞めることになりかねない。

悪 循環をよぶこうした付け刃的な対処法に抗して、私が提唱したいのは、「スペクタクル」に媚びるのではなく、「スペクタクル」がとりこぼし、光を当てること ができない生活の断片をかきあつめ、現代アートの制作の場へ持ちこむ道、「スペクタクル」がもたらす閉塞感、無力感に倦み、そこから解放されたいと思って いる潜在的不満分子を、現代アートの受容の場へ誘う道だ。

し かしその前提として、まず早急にのぞまれるのは、「スペクタクル」というメディアと、アートというメディアを、きちんと峻別することである。そのため、本 論文では、アートについて内在的によく知っているアーチストの立場から、アートの立場を擁護するために批判的になされた「スペクタクル」的なものについて の考察を集中的に検討することにした。マスメディアや高度消費資本主義が私たちの知覚や感受性にもたらす変容について星の数ほどある分析の中でも、ここで とくに、すでに言及したギィ・ドゥホール「スペクタクル」論、ミラン・クンデラの「イマゴロギー」論、ヘルマン・ブロッホの「キッチュ」論が取り扱われて いるのはそのためである。マクルーハンは、両メディアを峻別するというより、どちらかというと混同させる傾向にあるため、あえて取り扱わない。

 

2  「スペクタクル」

  「スペクタクル」「キッチュ」といった言葉をすでに連発してきたが、それらは何を意味するのか。というとまた膨大な問題になるが、ここでは、アートの制 作・受容の場と似て異なる、混同されやすい領域に的をしぼって分析して見たいと思う。

ま ず取り上げてみたいのは、高度消費主義社会における商品のもつ「スペクタクル」な表現力がアートのそれとどう異なるかという問題である。これを明らかにす るために、ドゥボールのいうスペクタクルの現実支配の諸段階をみてみよう。彼によると今にいたるまで徹底した「スペクタクル」の浸透は、段階を経てなされ たものである。『スペクタクルの社会』では次のようにいわれている。

 

 社会生活に対する経済の支配の第一段階は、あらゆる人間的現実の 定義を存在から所 有へ と明らかに堕落させてしまった。蓄積された経済的成果が社会生活を完全に占拠してしまった現在の段階は、所有から外観への全面的地すべりが行われている段 階だ。そこでは、あらゆる実質的「所有」が、己の即時的意向と最終的機能を「外観」から汲み取らなければならない。同時に、あらゆる個人的現実は社会的な ものとなり、社会権力に直接依存し、それによって作り上げられる。[3]

 

  ここで、「第一段階」と呼ばれている、「存在から所有へ」の人間的現実の定義の堕落は、多少分かりにくい。が、エーリッヒ・フロムが 『生きるということ』の中で論じている、「在る構え」の人と、「持つ構え」の人のことを思い浮かべればいいのだろう。[4]フロムによると、大量消費主義の進展につれて、自分がどう「あるか」ではなく、自分が何を「持っ ているか」にアイデンティティを見出す、「持つ構え」の人々が、多く見られるようになった。たとえば、立派な車や家を所有する ことで、自分も立派になったように感じるタイプである。そこにおいて、人は、その人が所有するものの総体によって定義されることになる。 

  では、この「所有」が、「外 観」へ全面的に地すべりするとは、何を意味するのか? 経済的成果が蓄積して、一通り必要なものが揃うと、ものは、たとえばそれが道具としてちゃんと機能 するかといった使用価値よりも、その「外観」が呼び起こす美的効果や連想のために求められることになる。実用機能より、そのデザインが、持ち主の趣味や教 養、人となりを表現するものとして、前面にでる。この段階の人は、それ以前の「所有」の段階の人のように、威光の象徴となるようないわゆる「立派なもの」 に画一的にとびつくわけでもない。その人らしさ、個性の表現が求められ、嗜好が多様化するようになり、それに答えるかたちで、市場にも、よりとりみどりの デザインのものが揃うようになる。こうして、商品が表現性を発揮するための条件が満たされ、そこで買い物をする人は、自分の選ぶ商品で、その人となりを、 生活の全域にわたって表現できるようになる。モリスのいう「芸術としての生活」の理想が実現したといえないこともない。

も ちろん商品でそれを行う以上、この表現行為は経済関係に依存している。ライフスタイル全般を絵画のように描きあげる絵筆のような表現媒体と化すまでの商品 の多様化の下ついつい見失われがちなのは、それでも、それが商品である以上、交換価値としての特性を持つものであり、利潤をあげるために作られており、そ の製造、販売は、グローバルな競争のなかで、ますます大企業、大資本に集中してきていることだ。しかも、それまで貨幣に依存せずに営まれてきたサービス業 をふくむ生活のあらゆる領域が、商品化の対象となってきている。お金さえ出せば実際なんでもできるようになった反面、お金がないと何もできない。つまり生 のほぼ全領域が、いまや市場に依存せずには成り立たなくなってきている。

そ うした市場への生活機能の全般的な依存に、その人の自己定義機能まで付け加えたのが、以上のような、高度消費主義社会の商品が持つスペクタクルな表現機能 なのである。だから、ドゥボールの言うように、「外観」の段階をむかえるにあたり、「あらゆる個人的現実は社会的なものとなり」、経済に支配された「社会 権力に直接依存し、それによって作り上げられる」ことを意味することになる。

た だ、この論文の目的は、そうした現状を糾弾することではなく、あくまで高度情報資本主義世界で支配的になってきたイメージや情報に対する態度である、「ス ペクタクル」というメディアと、アートというメディアの比較をし、両者を峻別した上で、両者の混同を排した、あらたなアートの制作・受容の場を模索するこ とにある。したがって、誰が支配者で、誰が被抑圧者か・・・といったことはとりあえず括弧にくくった上で、ここに見られる構造を、それ自体として、ただ分 析してみたいと思う。

そうすると、今度はアートの枠内に、これと構造的に似た状況が、資 本主義やマスメディアの発達よりずっと以前からみられることに気づかされる。すなわち、「キッチュ」の問題である。

 

3  「キッチュ」

キッチュについてアーチストサイドから徹底的に考えた古典的著作 は、ヘルマン・ブロッホによるものだ。[5]先 ほどのべた、商品によって、生活全体を芸術化する芸術家になれるか・・・という言葉に対して、ブロッホならば、否、その人は芸術家どころかその正反対の キッチュの実践を行っているにすぎないと言うだろう。ブロッホによると、キッチュとは、かつて、別のところで美的効果をあげた既成の要素を組み合わせれ ば、芸術作品が成り立つとする制作態度から生まれる虚偽芸術である。

彼 によると、既に効果を挙げた実績のある、どんなに素晴らしい、美的素材や技巧を足し算して組み合わせても、真正の芸術作品は生まれない。「このような指示 に無限に従ったからといって、生き生きと発展する価値体系が生まれるわけがありません。せいぜい価値体系のすでに過去のものとなった美的状況が際限される だけでありましょう」。[6] 

先ほどから検討している、商品の表現機能による自己表現も、同じ構 造を持っている。つまり、キッチュのヴァリエーションの一つといえる。商品は売るために作られており、売れるかどうかは過去の前例にならって予測される。だから、どんなにマイナー受けを狙っていても、す でにかつて誰かに認められた、既成価値に奉仕してつくられたものにならざるを得ないからである。

か つて効果をあげた「価値体系のすでに過去となった美的状況」を組み合わせても、生きた表現は生まれない様子は、静止した点をいくら並べても線はひけないの にたとえられるかもしれない。生きた表現を生み出すための動因が欠けているのである。線を引くには、点を思い切って運動させなければならない。

で は、何がこの静止した点の集積に過ぎぬものを、運動する点へと飛躍させるものは何か。「モラル的なもの」だとブロッホはいう。「モラル」といっても、「汝 ~なすべし」といった、具体的な時間空間を離れて成り立つ抽象的な道徳命令のことをいっているのではない。もしそうであれば、これに従っても、退屈な勧善 懲悪の教訓物語ができるだけだ。ブロッホはいう。むしろそれは、実体としては捉えられず、ただ「方向性」として示され、現実の個別ケースの中で、はじめて可視化されるもの。他ならぬこういう状況で、他な らぬこの人はどういう決断をし、どう振舞ったか・・・といった生き様の軌跡と してのみ、実現されるものである、と。いささか曖昧な気もするが、モラル的な価値観とは、そもそもそうしたものではないだろうか? 自分にとって何が大切 なのか、何のために生きているのか、もしそれが、たとえば「お金」という風に、実体的に名指せるのであれば、それを量的に積み上げながら生きればいいこと になり、創造性の入る余地もなくなってしまう。

こ の「モラル的なもの」は、規則や抽象命題として抽出できない、具体的個別ケースのなかでしか表せないといっても、法則めいたものがそこにみられないことを 意味するのではない。たとえばドストエフスキーの小説の見事に造形された人物たちは、小説という具体例、物語の流れとしてしか展開できないとはいえ、厳密 な法則性に従って生き生きと展開するイメージの宝庫であるように、筆者には思われる。

実際、この「モラル的なもの」の展開に、何らかの合法則性がみられ 体系がそこに生まれている証拠となるのが、それが描く美しい<かたち>、芸術作品としての完結性、ブロッホの言葉を使えば、「美的効果」 だという。

ただ、ここで忘れてはならないのは、この「美的効果」はあくまで 「モラル的なもの」を誠実に探求し、展開した結果として与えられる ものであり、芸術家が直接目指すものではないということだ。「芸術 家に向けられている倫理的要求はいまもなお、<善をめざして>仕事をせよということなのである」。[7]

しかしこのルールを無視して、モラル抜きに、「美的効果」という、 出来上がった<かたち>のみを直接求める安易な人たちがいる。しかし、モラル的な探求抜き に、自力で「美的効果」を生み出せるものではない以上、そうした人たちにできるのは、他の人が自 分の「モラル的なもの」の探求の結果生み出した美的な<かたち>を盗用することだけとなる。しかし彼が真似ることができるのは当然 ながら<かたち>のみ。自分でこれを生み出したわけではないので、これを生み出した 「モラル的なもの」を体験的に知っているわけではない。だから扱い方もその本来の精神、コンテキストを無視した場違いさを感じさせるものになる。これが キッチュなのである。

いうまでもなく、複製技術やマスメディアの発達は、キッチュ化の圧 倒的な追い風になっている。というのも、美的効果の<かたち>、 つまり、できあがった芸術作品の「外観」ならば、スイッチ一つですぐにコピーできるし、多少機械の心得があれば、好きなところで切りとって別のものとつな げるなど、自由に編集することはできる。しかしその創作のそもそもの原動力となった「モラル的なもの」の方は、スイッチ一つでコピーすることなど、当然な がらできはしない。その結果、流通するのは、美的効果の「外観」だけとなり、その過程で、そもそもこれを生み出した当のものである「モラル的なもの」は忘 れられる。あるいは、それを顧慮したり、それに敬意を払う習慣もなくなり、そもそもそうしたものがあることすら忘れられてきている、とさえいえるかもしれ ない。もとは真正の芸術作品でも、複製され、メディアの間を流通する間に、そのモラル的コンテキストから切り離されてしまい、あたかも、最初から「モラル 的なもの」などそこにはなく、ただ、大げさな身振りだけがあったかのように、見えてくる。古典的ないわゆる「名作」の多くは、すでにこの被害にあっている といっていいだろう。これを、ブロッホが告発してる、作家自身の手により<確信犯的キッチュ>と区別して、<結果的に生み出されたキッチュ>と呼ぶことにしよう。

<結果的に生み出されたキッチュ>の ターゲットにされた作品のこうむる被害はそれだけではない。それを生み出した「モラル的なもの」は忘却されるだけでなく、しばしばそれと全く関係しない、 矛盾することさえある、さまざまな思惑、利害関係に、その「外観」が利用され、期せずして、全く異質の権力を伝える媒体にさせられてしまう。こうしていつ のまにかベートーベンの交響曲が、一流ブランドの香水の宣伝のために、苦悩のあとの歓喜を鳴り響かせるといった事態も生まれる。ドゥホールが「スペクタク ル」と呼んでいるのは、この段階にあるアートその他の「外観」を指すものと思われる。

ドゥ ボールら状況主義者たちのもっともラディカルなメンバーは、「スペクタクル」に対抗するための自分たちの言動も、この方法で、ことごとく「スペクタクル」 に取り込まれ、利用されてしまう(反抗の身振りほど、実際、面白い出し物はないし、それを逆に糧にできる柔軟性こそ、「スペクタクル」の繁栄の秘訣だから だ)事態を前にして、「大切なことは拒否のスペクタクルを作ることではなく、まさにスペクタクルを拒否することである」と言い、一切の芸術制作を放棄して しま[8]う。

もしそれが正しければ、私もいまさら新たなギャラリーの構想をする 意味もなくなってしまう。しかし、「スペクタクル」へのアート作品の回収からの抜け道は、本当に存在しないのだろうか?

 

4  新しいギャラリー構想

4. 1 質問

  先ほどのブロッホのキッチュ論によると、芸術作品の制作をうながす「モラル的なもの」が見失なわれ、「モラル的なもの」の探求結果の副産物にすぎない作品 の「美的効果」、「外観」のみが一人歩きし始めると、スペクタクル化がはじまることになる。

だから、要はこの「モラル的なもの」が見失われないようにすればい い、といえる。

そのためにギャラリーができることとしては、展示する作品の<かたち>がすべてではないと気づかせ、この<かたち>を支える「モラル」が透けて見えるように仕向けることだろう。

具 体的には、たとえば、受容者が作品を眺めながら、その作家にいろんな質問ができるようにする。質問と言っても、「この作品は何を表しているのですか?」と いった真正面のものより、一見、作品テーマとは関係しないものの方がいいかもしれない。「モラル的なもの」は道徳とちがって、命題化もできず、実体として もとらえられず、ただ個別ケースの決断の中でのみ、可視化されるものだったことを思い出そう。実際には、どんな質問がなされるにせよ、作家と受容者の間で いったん対話がはじまると、そこにあらわれた「モラル的なもの」を理解するヒントになるものが、何らかの形であらわれるはずだ。

と はいっても、一見難解な作品に囲まれた現代アートの観覧者はふつう緊張している。場違いなことを言って、自分の無知、無理解を暴露したらどうしようと、心 に鎧をつけている場合が多い。しかし、作品を支える「モラル的なもの」、ようするに作家が表現行為において大切だと思っていることは、彼あるいは彼女の価 値観として、その人となりのなかにも現れるので、それ自体、実体的に捉えられない代わり、あらゆる個別ケースの中に現れうるのである。だから、役に立たな い、方向違いの質問、間違った質問など、実際、ありはしないことを、あらかじめ、観覧者に理解してもらうというのも一つの手かもしれない。

もちろん、作家の方が、一見的外れな質問につきあってるうちに、自 分の作品のモラルについて、これまで思いもかけなかった角度から見つめなおさせられ、その新しい側面に気づかされる、という可能性もあるわけで、そういう 予測不能な展開があればこそ、対話が面白いのだ。

だ から、まずは、気軽に質問ができ、対話がはじまる雰囲気をつくることが、ギャラリーにはとても重要なファクターになる。自由な対話成立のためには、権力関 係が対称的になるように計らうことも大切である。権力関係に対称性がない場合、対話も権威主義的なものに硬直しがちだからである。そのためには、展示空間 全体から権威主義的な身振りを可能な限り抜く努力をすべきである。たとえば、作家の学歴、留学歴、賞歴といった情報は一切与えない。もし何かに権威を認め るとすれば、それは作品のうちに現れた「モラル的なもの」であり、また、これを感知し、それに刺激され、これと対話関係にはいる受容者のうちにある「モラ ル的なもの」である。もし、そこにたんなるキッチュな「外観」の一人歩きがあって、どんなモラル、生き様も感じさせないとすれば、受容者の方がこれを断罪 し、蹴って捨てる権利をもっている。

  制作中の作品が転がっていた り、生活臭ただようアーチストのアトリエを訪問して、その中で作品を見るのも、効果的だろう。作家が、どんな態度で制作をしているかを体験することで、作 品をささえる「モラル的なもの」も一段と見えやすくなる。といっても、作品解釈を作家の生活環境やライフヒストリーに還元しろというのではない。生活の内容ではなくて、態度、 生き様、モラルを見るのである。

 

4. 2 確信犯的キッチュ作家への対応

  しかしそんな風に作家のアトリ エ訪問をしたり、質問を重ねることで、受容者がそこに、作品制作をささえるモラル的なものを見て取り、作品理解を深めることが出来るかは、作家にもよる。 実際、自分のモラル、生き様から、有機的に作品を制作している作家はまれ、というのが現状なのだ。私の知る限り、私の地元、札幌にいるほとんどの作家は自 分をとりまくリアリティから制作しておらず、それを超えた規範(権威のある団体展の評価基準やアートの最先端の流行)に照準を合わせている。つまり、過去 の別のところで美的効果をあげた既成の要素を組み合わせることで、作品を成立させるキッチュの方法によっているのである。ブロッホが1930年 代に、次のように述べた事態は、そう変わっていない。「(・・・)キッチュは、幾度も既存のもののドグマ的影響の下に屈服し、その語彙を直接世界から引き 出しているのではなく、既成の語彙を用いているのであり、この語彙はキッチュの手によって硬直化し、ステロ版となる。どの美術展覧会でも一巡すれば、この ことを裏書してくれるだろう。この点にも、キッチュの無意志、モラル的意志の嫌忌、価値の神的―創造世界の嫌忌があらわになっている」。彼らは、自分の中 から<かたち>を紡ぎだしていないので、なぜ、あなたの作品は、他ならぬこういう<かたち>をしているのか?と問われても答えようがない。

  しかし、だからこそ、そうした 確信犯的キッチュの作家に対してこそ、鋭い質問を重ねて、自分の制作態度の無根拠さ、自分の作品の空虚さに気づかせるべきなのだ。そして、自分の生き様を さらけ出せずに、力を持った別のものに拠りかからずには制作できない自分の弱さをみつめるべきなのだ。というのも、この弱さの自覚だけは、嘘ではなく、そ の人のリアリティであり、モラル的なものがはじまるのはまさにそこからなのだから。クンデラの小説、『存在の耐えられない軽さ』には、一見キッチュに見え る紋切り型の光景を描きながら、その画面に裂け目を入れて、そうしたキッチュにおさまりきれぬ深層心理的な舞台裏をのぞかせようとする作風の画家、ザビネ が登場するが、そこでは次のように語られている。「キッチュは嘘と見破られる瞬間、キッチュでないもののコンテキストの中へ入り込む。そうして自己の権威 的力を失い、他の人間の弱さがどれもそうであるように感動的なものとなる」。

  確信論的キッチュの作家のすべてをしめだしていたら、そもそもギャラリー運営が成り立たない。だから、この<質問>と いう方法によって、作品受容のプロセスの中に、「モラル的なもの」がひらめく瞬間をしのびこませるのである。質問により、キッチュな「外観」に裂け目が 入って、作家が自分の弱さに気がついて、その弱さに対して、何らかのモラル的な決断をなす瞬間、その場には、パフォーマンスとして、真正なアートがあると いえるだろう。それはまた、よい作家を育てていくことにもつながるだろう。

 

4. 3 スノッブな観覧者への対応

キッ チュな作家たちがますます増えてきている背景には、高度情報資本主義の発達にともない、圧倒的な浸透力をもつようになった「スペクタクル」の知覚形式が、 アートという本来それとは異質のメディアにも侵食してきている事情を物語る。実際、デパートでウィンドウショッピングしたり、テレビのチャンネルを回して いると、世界中のあらゆる場所からきた、あらゆるイメージ、あらゆる情報の「外観」が目にとびこんでくる。自分の買う商品を選ぶように、あるいは、見る チャンネルを決めるように、そこから気に入ったものを――自分の生き様とも、モラルとも何の関係がなくても――作品の中に恣意的に取り入れて、どこが悪い のだろうと思えてくる。それも自然なことだろう。

また知名度が、メディアでの効果的露出を意味する以上、それをスペ クタクルに演出する必要もでてくる。

「ス ペクタクル」とアートのこの混同は、受容の場にもみられる。先ほど、ドゥボールの言葉を引き、人間的現実の定義が、「存在」から「所有」に、そしてその 「所有」が、「外観」によるものへと移行したと述べた。そして、いまや自分の所有するものの「外観」によって、自分の人となりや、ライフスタイル全般をス ペクタクルに表現する、いわゆる「芸術としての生活」の時代がきたと述べたが、実際、現代アートのつまみぐい観覧者の多くは、熱心にこれを実践する人たち だ。彼らは、特定の作品を部屋に飾ったり、特定の画集を持ち歩くことで、自分の感受性の鋭さや時代の先端を行く先鋭性、社会に対する反抗や懐疑、風代わり で独特な世界と通じる個性的存在であることをアピールしようとする。一言で言えば「自分は特別」だということを、誇示するために現代アートに近づいてい る。ここにも、アートの「美的効果」のみを、そのモラル的コンテクストから外して、自己宣伝という別の用途のために利用する「スペクタクル」の構造がみら れる。また、同じ構造が、イメージアップのためにアート振興にたずさわる企業のホワイト・ウォッシュ的戦略にもみられるといっていい。

も ちろん、こうしたスノッブ以外の誰によってアートがこれまで経済的に支えられてきたか?という声もあるだろう。実際、ギャラリーに来る人の最初の動機は、 別にそれでもかまわないと思う。が、これを別のものに変容させないと、その人は、自分に対しては自己欺瞞的、作品に対しては失礼な態度をとることになって しまう。というのも、スノッブな人とは、ジラールの言葉をかりれば、「自己の情熱」から自発的に動くのではなく、「他者の欲望」の操り人形として動いてい る。[9]一 見、アートに熱中しているようにも見える。しかしそのわたしは、あくまで、他者の目に映った効果を想定した、装われた「わたし」であって、本当の私ではな い。だから、どこか自己欺瞞をおかし、無理してる、ということになりかねない。征服感を味わうためだけの恋愛のように、相手が近づきがたかったり、つれな いほど、情熱的に求められることはあるだろう(アートが難解で、高価であるほどとびつく心理と同じである)。しかしそれは、ナルシシズムの充足のためにす ぎず、作品の内在的な価値、「モラル」にひきつけられているわけではないので、興味が長く続くことはない。

実 際、美的感受性や創造性に富む人たちが、所有するものの「外観」の誇示によるスペクタクルな自己表現しか方法をしらないために、膨大なお金とエネルギーを 買い物に注ぐことで、商業主義の餌食にされているのは、よく見られる光景だ。彼らの才能や素質としてはアーチストに近いのかもしれない。しかしその態度、 方法は、先ほどのブロッホのいわゆる「キッチュ」におちいっている以上、真正の芸術をつかみ損ねているし、態度を変えない限り、これからもつかみ損ねつづ けるだろう。

<スノッブな観覧者>も、<確信犯的キッチュ>と同じく、「スペクタクル」とアートというメディアの混同の犠牲者 である。では、ギャラリーとしては彼らをどう対処すればいいのだろうか?

 

4. 4 働くこととアートをつなぐ

ふたたび、ブロッホのキッチュ論にもどろう。彼はひとりの芸術家と して、創作現場からキッチュ的要素を一掃するのがいかに困難かということを痛感していた。そこで、芸術家は、自分から意 図的に美しいものを作ろうとすることすら、自らに禁じなければならないとまで言っている。「『美的欲求』は、既存のものを価値 目標にしてしまい、しかも『誤った』価値目標に変え、偽の価値主体として持ち上げ、悪の運搬者、アンチ神にする」。[10]と いうのも、私たちが美しい、心地よいと思うものは、見慣れたものであり、したがって、「美しいもの」をつくりたいと思った時点で、すでに「既存のもの」に よりかからざるを得なくなるからだ。では、真正の芸術作品のメルクマールとなるような、戦慄させるような、出来事としてリアルに迫ってくる新しい美はどう だというのだろう? しかし、新しい美を、意図的に求めることは、形容矛盾になりはしないか? を しかも意図して求めようとすることのうちには、既存のものへの期待 がすでに入り込んでしまうからだ。ここには論のどうどうめぐりがみられる。そこで彼が提唱するのは、芸術家は、美のことなど、つまり、出来上がった<かたち>の成否など一切考えずに、ひたすら「モラル的なもの」を探求せよと いうことだ。美を直接意図的に求 めると、既存のものへの立ち返りを余儀なくされる。しかし「モラル的なもの」の方であれば、それ自体、実体としては、とらえどころがなく、ただ「方向性」 としてのみ示され、現実の個別ケースの中で生きられてはじめて可視化されるそれ自体未知のものである。だから、創造的、未来志向的にならずには、探求のし ようもない。このモラル的探求の結果、たまたま美しい<かたち>、「外観」が生み出されるかもしれない。でもそれが生み出されるか どうかは、自分のコントロールの外にあると考える(コントロールしようとすると、キッチュが生まれるだけだ)。

この様子を説明するために、ブロッホは自分に与えられた仕事を、仕 事そのもののために立派にやりとげることで、その結果として神の恩 寵が与えられると信じた中世の職人たちの例をあげる。彼らは「その全部をひっくるめると神ができあがるような調理法」[11](今風に言えば、「マニュアルどおりのやり方」とでもいうべきか) を直接行ったのではなく、靴や織物、銀細工作りといった、あくまで自分に職業的責務として課せられたことを立派に行うことで、その結果として神の恩寵が得られると考えたにすぎない。

ブ ロッホが挙げるもう一つ別の例は、理想的な商人の例である。ブロッホ自身、四十歳で突如引退して大学で哲学を学び始めるまで、父の紡績工場をつぎ、実業界 で活躍していた背景を髣髴とさせる例だ。「商人は自分の仕事の合目的性に従って、自己の職業、産業、工業をいとなむもので、富はその結果として与えられるにすぎない」、これに対して、はじめからこの富の拡大のみをめ ざすと、「倫理的に忌むべき人間になる」とまでブロッホは言いきる。[12]そんな理想的商人が今まだいるとは到底思えないが、「倫理的に忌む べき」例の方には事欠かない分、言いたいことはよく分かる。

以 上の例を、論理的な言葉でまとめなおすと、さしずめ、次のようになるだろう。「モラル的なもの」を核に、一定の価値観の実現をめざしてなされる人間のあら ゆる営みは、一つの体系をなす。が、その体系を開かれた柔軟なもの、生き生きとしたものに保つために、この核を合理的には決してとらえられないものとし て、つまり、非合理的なままにとどめて置く必要があることだ。そのためには、体系の目標(中世の職人の場合は「恩寵」、理想的商人の場合は「富」、芸術家 の場合は「美的効果」にあたる)を、こちらのコントロールのきかない、外からたまたま与えられるかもしれないし、あるいは与えられないかもしれない<贈り物>とみなすのがよい。逆にこうした非合理的なものを無理に合理化し、 自分の営みを「調理法」、マニュアルにさえ従えば、こちらの思い通りにコントロールして得られるものにしてしまった瞬間、その人の生きる価値体系は硬直 し、創造性が役目を果たす余地がなくなってしまう。

こ のように考えたとき、確信犯的キッチュの作家による見かけばかり立派な作品や、スノッブによる、所有物のひけらかしによる「生活の芸術化」や、出来上がっ たアート作品が放つ「外観」の美的効果のみを、モラル的コンテキスト抜きにスペクタクルに展示するギャラリーよりも、アートの本質に近いのは、仕事中の職 人や農家や企業家や医者や研究者たちなのではないかと思われてくる。ようするに、自分の職業に誇りをもち、職業実践のなかで、その職業に内在したモラルを 貫き、価値を生み出そう全力でめざしながら、やれることをすべてやった後はしかし、その成否をきっぱり天に任せる人たち、しかし自分の仕事がのぞましい成 果を挙げられるかどうかは、自分のコントロールを超えると考え、うまくいった場合はそれを一種の「贈り物」として、ありがたく、謙虚に受け取るあらゆる職 種の人たち・・・キッチュな芸術家たちよりも、彼らの方がずっと、真正な芸術家の近くにいるのである。

だから、アートのスペクタクル的利用を避けようと思ったら、できあ がったアートの「外観」を超えて、くりかえし、「モラル的なもの」の支配するこの仕事現場へ引き戻すことだ。先ほど述べた、作品を前にした受容者が作家に 対してなす<質問>も、うまくなされると効果的だろう。同様にして、受容者に対して は、作品、作家と対峙しながら、それぞれの生活や、職業のなかで自分が生きている「モラル的なもの」を見つめなおし、作品のそれと、比較したり、対話でき るように誘導することである。

作 品を「モラル的なもの」の表れとして、その制作現場でとらえ、それを受容者の「モラル的なもの」が表れる働く現場と直接つなぐもっとも効果的なやり方は、 この両者を実際に交換の場にもたらすことかもしれない。たとえば、ギャラリーでアートに触れたその対価として、ボランティアをしてもらう。といっても、強 いられたボランティア、いわれたことを機械的にやるボランティアではなく、自分で、自分がやれること、また、やって価値があると信じていることを、その場 で発見してやってもらうボランティアである。というのも、そうした発見的ボランティアには、その人の「モラル的なもの」が必ず表れるからである。

も ちろん、作品レンタル、購入の際に動く現金には既に、アーチストと受容者、お互いの仕事の交換の意味合いがある。が、現況では、現金を稼ぐための自分の職 業を、「モラル的なもの」の実現としてやっている幸運な人は、ほんの一握りしかいない。だから、「モラル的なもの」を背景にした仕事とアートという仕事を 交換し、アートを「モラル的なもの」というそのあるべき場に引き戻すためその場で即なされる<発見的ボランティア>をなすことが状況から不可能な場合、その価値を保存するための別の 通貨、コミュニティ通貨を利用するのも有効だろう。[13]

 

4. 5 コンテキストの重視

も う一つだけ、「スペクタクル」化を避けるために、新しいギャラリーが考慮すべき、そのロケーションや作品展示方法について、考察しておきたい。「モラル的 なもの」が、それ自体、実体的に抽出できず、具体的個別ケースの中でしか展開できないということは、それが置かれるコンテキストがとても大切だということ を意味する。こうしたコンテキストの重視こそ、マスメディアで往々にして行われるイメージの「スペクタクル」的扱いに、決定的に欠落していることだ。もち ろん、一つのテーマをめぐり、さまざまな角度からそのコンテキストを明るみに出そうとする良質のドキュメンタリー番組もある。しかし、たとえ番組編集者は そのつもりはなくても、テレビのメディア構造はコンテキストを寸断することになりやすい。たとえば一つ一つのテーマに細切れ時間しかさけず、すぐに、前の 話題と全く違う話題へ切り替わる報道番組の形式や、コマーシャルタイムの挿入による話の切断、そもそもの情報量の多さと、流れるスピードの速さ、また、リ モコンのスイッチ一つで、チャンネルが切り替わり、どんなに深刻な内容の番組も、お笑い番組も、一緒くたに番組表という均質な枠の中につめこまれ、交換可 能なものにされてしまうことなどがそうである。

そ のどこが問題か? コンテキストを寸断され、情報が断片化されるとき、見る人は、それをいくら見せられても、それを自分自身や自分の生活と関連付けること が出来なくなってしまう。情報量の多さやスピードもこの傾向に拍車をかける。その結果、どんな深刻なニュースも、無感動に見飛ばせるようになってしまう し、だいいち、覚えてなどいられない。クンデラは『穏やかさ』の中で、その極端な例として、テレビを眺めているうちに、飢えに苦しむソマリアの子供たち と、乳幼児用品のコマーシャルの映像とがだぶって区別がつかなくなる様子が描いている。[14] 「スペクタクル」なイメージの扱いによるコンテキスト寸断が、情 報のモラル的コンテキストを徹底的に破壊する例である。

「ス ペクタクル」なメディアと峻別される、アートというメディアの場である新しいギャラリーにおいては、これに対して、あらゆるものが、単なる「外観」におい てではなく、モラル的な方向性において、関連づけられるように展示されなければならない。たまたま世代や国籍やテーマやジャンルといった、作品の「外観」 にすぎぬものが類似しているからと言って、それを支える「モラル的なもの」が全く関連しようのないイメージを脈略なく隣り合わせにするといったことは、避 けたい。また、展示される作品同士だけでなく、展示空間全体とその外の世界(環境、地域の性質、その歴史・・・)との関連も顧慮する必要がある。

も ちろん、作品、展示空間、環境といったすべてのコンテキストを、お互い溶け合わせ、同じトーンで一緒くたにせよといっているわけではない。逆にコントラス トをもたせることで、お互いの「モラル的なもの」が、明瞭になるということもありえる。互いに関連づけられ、相互関係、対話関係が分節されるようにする、 というのが肝心なのである。コンテキスト同士に生き生きとした対話的関係が生まれると、そこから、包括的で力強いコンテキストの網の目が生まれる。する と、それに取り囲まれた観覧者も、何らかの形で、自分が持ち込んだコンテキスト(記憶や生活や職業上の関心事など)とそこにあるものとの接点を見つけ、作 品や作家と対話をはじめることができるようになる。より深いところにある「モラル的なもの」は、もちろん、そうしたコンテキストの単なる集積というより、 むしろそのコンテキストの総体を一つの価値観で動機付け、統合して、その人ならではの色合いに染め上げているものだ。が、それも、まず、作品同士や、作品 とそれをとりまく環境との間にコンテキストの相互関係がベースとしてあり、そのベースの上に、自分の記憶や内的な関心など、自分が持ち込んだコンテキスト を、ゆったりと広げられてこそ(この様子を俗に、くつろぐ、という)、その力強い輪郭を露にすることができる。そして、作品にみられる「モラル的なもの」 と、対話的な関係へとはいっていけるのである。

 



[1] ミラン・クンデラ、金井裕、浅野敏夫訳、『小説の精神』、法政大学 出版局、191ページ。

[2] ギー・ドゥボール、木下誠訳、『スペクタクルの社会』、ちくま学芸 文庫、14ページ。

[3] 同、20ページ。

[4] エーリッヒ・フロム『生きるということ』紀伊国屋書店

[5] ヘルマン・ブロッホ、「長編小説の世界像」、「芸術の価値体系にお ける悪」、『ヘルマン・ブロッホの文学空間』入野田眞右訳、北宋社、1995年、収録。

[6] 同、13ページ。

[7] 同、60ページ。

[8] ギー・ドゥホール、前掲書、229ページ。

[9] ルネ・ジラール『欲望の現象学』、法政大学出版局。

[10] 同、79ページ。

[11] 同、13ページ。

[12] 同、14ページ。

[13] これについては、堀田真紀子、「芸術による地域文化の活性化―札幌 アーチストギャラリーの試みと地域通貨導入の実験」、北海道大学言語文化部紀要第52号、20073月を参照のこと。

[14] ミラン・クンデラ、『穏やかさ』集英社、21ページ。